美容整形は戦後高度成長期に乗って発展しました。形成外科は戦後に戦傷外科から外傷外科、そして美容医療の一部を担って存在してきました。どちらも形態改善医療であるから、オーバーラップしていて、少なくとも、機能改善をも目的とする疾病対象の医療である形成外科診療において得られる知識や経験は、美容外科医療を行う際に必要不可欠であることはこれまでにも、このブログで再々述べてきました。
昭和50年代に形成外科と美容外科が標榜されたとき私は、これでまともな医療として見てもらえると期待していました。しかし、広告宣伝合戦と、多店舗展開という、ビジネスの世界に向かってしまったのは、前回詳述した通りです。私が医学部であった昭和50年代に情勢は急展開していったのです。私は父とよく、この状況について話し込んでいました。この経緯を検討すると、一番の問題は、形成外科と美容外科を分離したことにあるとは思います。欧米では一体で診療しているところが多いのです。そして、形成外科の特殊標榜を勝ち取れなかったのも、大敗北だと思います。欧米では、形成外科専門医がなくては診療できないのです。もう今更、変えられないとは思いますが、今後専門医検討会が上下階段方式にしようとも考えているようです。
昭和50年代に話しを戻します。標榜科目が二つに分かれ、日本美容外科学会が二つ存在する不思議な国になってしまい。さらに、抗争が起きてしまったのです。
ここからは、誰が主役だか解らなくなってしまいました。美容医療に於いては、もちろん主客は患者さんです。私達医療者は、施行者であり、推進者でもありますが、医療の目的は私達の存在の為ではありません。
二つの学会が成立してしまった為に、それぞれの人達の正当性を争わなければならなくなってしまったのです。それは、つまり生存権にも繋がる事になるからです。
もう一度反芻します。JSASとJASAPSとは、開業医の美容整形出身者と、形成外科を大学病院などで、まともに(どこまでが必要かは後で説明します。)、システマティックに研修した後に美容医療に携った者の二つのグループです。
ふと、思い返して見ました。何故このような事になったのでしょう。これは、システムの問題です。制度の問題です。
そこで脱線して、美容医療に関係する日本の医療の制度、制度の特徴について、またはその経緯から生じた美容医療への影響を述べて行こうと考えてみました。次回は番外編として、その面に触れてみます。そのため、本題の「美容医療の歴史的経緯。」は一回休みます。